大河ドラマ【べらぼう】ネタバレとあらすじ全話!なぜ蔦屋重三郎はヒットメーカーに?

2025年の大河ドラマは【べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜】。江戸時代中期が舞台で、吉原で育った“蔦重”こと蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)(横浜流星)が、「江戸のメディア王」として時代の寵児へと駆け上がる波瀾万丈の物語!

今回は大河ドラマ【べらぼう】のネタバレあらすじを最終回まで全話紹介、あらすじ概要、なぜ蔦屋重三郎はヒットメーカーになったのか、蔦屋重三郎とTUTAYAとの関係、蔦屋重三郎の年表、についてお伝えします。

目次

【べらぼう】ネタバレあらすじを最終回まで!

大河ドラマ【べらぼう】のネタバレあらすじを最終回まで紹介していきます。

第1話「ありがた山の寒がらす」(1/5)

安永2(1773)年。三日三晩、江戸の町を焼き尽くし、死者が1万人を超えた「明和の大火」から1年半が過ぎた頃、吉原の人々を火災から救った蔦重こと蔦屋重三郎(横浜流星)は、茶屋で働く傍ら貸本業を営んでいた。ある日、蔦重は幼なじみの花魁・花の井(小芝風花)から、元高級女郎の朝顔(愛希れいか)への届け物を託される。朝顔が暮らす浄念河岸を訪れた蔦重は、ひどく衰弱した朝顔を目にする。蔦重は、吉原の場末である河岸見世の女郎たちの惨状を目の当たりにして思い悩む。

第2話「吉原細見『嗚呼御江戸』」(1/12)

蔦重は吉原に集客する案として、吉原の案内本「吉原細見」の売り上げを伸ばそうと、序文を江戸の有名人である平賀源内(安田顕)に執筆してもらうことを思いつく。一方、江戸城内では、一橋治済(生田斗真)の嫡男・豊千代の誕生祝いの宴が盛大に行われる。そこには御三卿をはじめ、田沼意次(渡辺謙)らが集まっていた。

第3話「千客万来『一目千本』」(1/19)

蔦重は女性たちから資金を集め、新たな本に着手。本作りに夢中になる蔦重に対し、父代わりの駿河屋(高橋克実)は激怒し、家から追い出してしまう。それでも蔦重は本づくりを諦めず、絵師の北尾重政(橋本淳)の元を訪ねる。そのころ、意次は将軍・徳川家治(眞島秀和)に白河松平家への養子計画について相談を持ち掛ける。

第4話「『雛形若菜』の甘い罠」(1/26)

女郎たちを花に見立てた新たな本「一目千本」で成功した蔦重は、呉服店の着物を着た女郎の錦絵を作る計画を立て、店から資金を集めようとするが苦戦。一方、田安治察(入江甚儀)亡き後、田安賢丸(寺田心)は、意次が画策した白河藩への養子計画を撤回するため、松平武元(石坂浩二)にある頼みを命じる。

【べらぼう】あらすじ概要(ネタバレなし)

  • 時は18世紀半ば。
  • 舞台は、人口100万を超え、天下泰平の中、世界有数の大都市に発展した江戸。
  • 主人公は、多くの浮世絵師・作家の才能を世に送り出した出版人「蔦屋重三郎」(つたやじゅうざぶろう)。※実在の人物です。

【貸本屋からヒットメーカーへ】蔦重こと蔦屋重三郎(横浜流星)は、江戸郊外の吉原の貧しい庶民の家に誕生。幼いころに両親と生き別れ、引手茶屋・駿河屋の養子となる。 蔦重は、貸本屋から身を興し、書籍の編集・出版業へ。
 当時、時の権力者・田沼意次(渡辺謙)が創り出した自由な空気の中、江戸文化が花開き、平賀源内(安田顕)など多彩な文人が輩出されていました。
 蔦重は、朋誠堂喜三二(平沢常富の筆名)などの文化人たちと交流を重ね、「黄表紙本」という挿絵を使った書籍でヒット作を次々と送り出します。

【江戸の出版王へ】33歳の蔦重は商業の中心地・日本橋に耕書堂を開業。“江戸の出版王”へと成り上がっていきます。蔦重は、喜多川歌麿(染谷将太)、山東京伝、葛飾北斎、曲亭馬琴、十返舎一九といった若き個性豊かな才能たちをが見いだしました。

【弾圧】時世は移り変わり、田沼意次が失脚。代わりに台頭した松平定信は寛政の改革を実施し、1790年には幕政批判や風紀を乱す書物と書き手を取り締まる「出版統制令」を発令します。翌1791年に戯作者の山東京伝の洒落本が風俗を乱したとして罰せられ、彼と親交の深かった蔦重も財産の半分を没収される処罰を受けます。周囲では江戸追放や死に追いやられる者も…。

【晩年】蔦重は、その後も幕府からの執ような弾圧を受け続けま。それでも反権力を貫き通し、戦い続けた蔦重。そんな中、蔦重の体を病魔が襲います。 命の限りが迫る中、蔦重は壮大なエンターテインメントを仕掛けます。それは浮世絵師・東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)の企画・プロデュースです。

歌麿、写楽、北斎…。名前と作品は知ってるけど、版元・蔦屋重三郎のことは知らなかった。知られざる物語を知れるの楽しみ♪

【べらぼう】なぜ蔦屋重三郎はヒットメーカーに?

2025年の大河の主人公・蔦屋重三郎は、吉原のガイドブックをヒットさせ、「美人画」の喜多川歌麿、「役者絵」(歌舞伎絵)の東洲斎写楽という2大スターを生み出した(企画編集・制作を行う)江戸のヒットメーカー。江戸のメディア王とも称されています。

気になるのは、なぜ蔦屋重三郎はヒットメーカーになったのか?という疑問。

もちろん大河ドラマを視聴することで、分かっていくのですが…。実在する人物なので評伝や解説本がたくさん出ています。その中で、分かりやすく7つのポイントを挙げている書籍がありました。

伊藤賀一氏(「スタディサプリ」日本史講師)が著者『これ1冊でわかる! 蔦屋重三郎と江戸文化: 元祖・敏腕プロデューサーの生涯と江戸のアーティストたちの謎を解き明かす』の中で、以下の7つのキーワードを挙げています↓

蔦屋重三郎が成功した(ヒットメーカーになった)7つのキーワード

  1. 『出自』を活かした。
  2. 『家庭の事情』を活かした。
  3. 『競合相手の失敗』を活かした。
  4. 『流行(ブーム)』を活かした。
  5. 『業界への弾圧』を活かした。
  6. 『みずからの死』を活かした。
  7. 『時代背景』を活かした。

特に、出自や家庭事情を活かした点は興味深いです。伊藤氏は、蔦屋重三郎について「現代社会では『ガチャ』と呼ばれるような、みずからは選べない偶発的要素を前向きに活かし、たくましくなり上っていった人物だ」と評しています。

業界への弾圧に屈しなかったのも特筆すべき点。寛政の改革による出版統制令の影響で、戯作の黄表紙や洒落本が発売禁止処分になり、狂歌絵本も一時的に停滞。それでも、蔦重は浮世絵や専門書、学術書に活路を見出し、話題になりました。

また、江戸の人々は物価高に振り回されながらも、ゆるい世を謳歌し、出版業界は隆盛を迎えました。

実質賃金が上がらなくて閉塞感が漂う現代。現状を時代や政治のせいや、親ガチャのせいにして嘆いて、後ろ向きに生きていても壁を突破できません。現代を生きる我々にも、蔦屋重三郎から色々と学べるところは多いかもしれませんね。

【べらぼう】蔦屋重三郎とTUTAYAの関係

TUTAYA(蔦屋書店)は重三郎の子孫が経営してるの?と気になりますね。

実は、蔦屋重三郎とTUTAYA(蔦屋書店)は関係ありません。

TUTAYA(蔦屋書店)は蔦屋重三郎の子孫が経営しているわけではありません。

TSUTAYAを創業したのは増田宗昭(ますだむねあき)さんですが、その増田さんの祖父が営んでいた置屋の屋号が「蔦屋」だったことに由来して、蔦屋書店と名付けられたそうです。

なお、その祖父の屋号は、蔦屋重三郎の業績にあやかった命名であるとされています​。

【べらぼう】蔦屋重三郎の年表

大河ドラマ【べらぼう】の主人公・蔦屋重三郎の年表(大河ドラマとの対応表)です↓

ドラマ年代・蔦重の年齢蔦屋重三郎の出来事
寛延3年1月7日(1750年2月13日)・0歳誕生(遊郭の街である新吉原で産まれた)
1話安永2年(1773年)・23歳本屋「書肆耕書堂」を営む
2話安永3年(1774年)・24歳『細見鳴呼御江戸』編纂に携わる
3話安永3年(1774年)・24歳「蔦屋」の名で初めて北尾重政を絵師に起用した『一目千本』を刊行
安永4年(1775年)・25歳自ら『籬の花』と題した吉原細見を刊行開始
4話安永4年(1775年)・25歳老舗の版元西村屋与八と共同で礒田湖龍斎の『雛形若菜の初模様』シリーズを刊行
安永5年(1776年)・26歳山崎屋金兵衛と組んで北尾重政と勝川春章を起用した彩色摺絵本『青楼美人合姿鏡』を刊行
安永6年(1777年)・27歳『明月余情』『手ごとの清水』『娼妃地理記』刊行。
安永9年(1780年)・30歳朋誠堂喜三二の黄表紙、四方赤良の『虚言八百万八伝』などを刊行。
天明元年(1781年)・31歳志水燕十の黄表紙『身貌大通神畧縁記』刊行。作画の北川豊章が歌麿を初めて名乗る
天明3年(1783年)・33歳日本橋通油町に進出し、耕書堂を開業。狂歌師として「蔦唐丸」を名乗る。喜多川歌麿画の『燈籠番附 青楼夜のにしき』、四方赤良編の『通詩選笑知』刊行。吉原細見の株を独占。『五葉松』を刊行
天明4年(1784年)・34歳北尾政演画の『吉原傾城新美人合自筆鏡』、四方赤良編の『通詩選』刊行。
天明5年(1785年・35歳)山東京伝の黄表紙『江戸生艶気樺焼』、洒落本『息子部屋』、狂歌集『故混馬鹿集』『狂歌百鬼夜狂』『夷歌連中双六』などを刊行。
天明6年(1786年)・36歳山東京伝の洒落本『客衆肝照子』、北尾政演画、宿屋飯盛編の狂歌絵本『吾妻曲狂歌文庫』、喜多川歌麿の絵入狂歌本『絵本江戸爵』刊行。
天明7年(1787年)・37歳山東京伝の洒落本『通言総籬』、喜多川歌麿の絵入狂歌本『絵本詞の花』、四方赤良編の狂歌集『狂歌才蔵集』、北尾政演画、宿屋飯盛編の狂歌絵本『古今狂歌袋』刊行。
天明8年(1788年)・38歳山東京伝の洒落本『傾城觿』、喜多川歌麿の絵入狂歌本『絵本虫撰』刊行
寛政元年(1789年)・39歳喜多川歌麿画の『潮干のつと』刊行。恋川春町の黄表紙『鸚鵡返文武二道』刊行
寛政2年(1790年)・40歳山東京伝の『小紋雅話』、洒落本『傾城買四十八手』刊行。
寛政3年(1791年)・41歳山東京伝の黄表紙『箱入娘面屋人魚』、洒落本『仕懸文庫』『青楼昼之世界錦之裏』『娼妓絹籭』が摘発される。重三郎は身上半減の重過料が課される。
寛政4年(1792年)・42歳曲亭馬琴が番頭として蔦屋で働き始める。10月、母の津与が死去。この年より翌年にかけて喜多川歌麿の美人大首絵を多数刊行。戯作制作を断念し、書物問屋として学術関連の書物刊行を始める
寛政5年(1793年)・43歳結婚を機に曲亭馬琴が退職
寛政6年(1794年)・44歳この年より翌年にかけて東洲斎写楽の役者絵を多数刊行。十返舎一九が蔦屋に寄宿、黄表紙『心学時計算』刊行。
寛政7年(1795年)・45歳版元蔦屋重三郎として確認されている最後の錦絵(東洲斎写楽作)刊行。本居宣長の随筆集『玉勝間』刊行。
寛政9年(1797年)・47歳死没

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