【どうする家康】44話ネタバレと視聴率|平平コンビの思いと最期に胸アツ!

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どうする家康44話

【どうする家康】44話ネタバレと視聴率|平平コンビの思いと最期に胸アツ!
第44回「徳川幕府誕生」
が11月19日に放送されました。本多平八郎忠勝(山田裕貴)と榊原康政/小平太(杉野遥亮)の殿への思いと最後の会話、伏線が話題です。
今回は、【どうする家康】44話のネタバレと視聴率・感想・レビューをお届けします。

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目次

【どうする家康】44話の視聴率

【どうする家康】44話の視聴率は11月20日にお知らせします。

【どうする家康】44話のあらすじ

【どうする家康】44話のあらすじです。

家康は当面の身代わり?

「関ヶ原の戦い」に勝利した家康は、その勢いのまま石田三成/治部(中村七之助)の佐和山城をはじめ、敵の拠点を次々に制圧していった。

そのまま大坂へと進み、大坂城にて豊臣秀頼に謁見。徳川秀忠(森崎ウィン)とともに先勝報告した。豊臣家の当主といえど、秀頼はまだ7つ。ぴたりと傍らに寄り添い、場を仕切るのは常に母の茶々(北川景子)で、家康と秀頼に杯を交わさせる。

「家康殿は、そなたの新たなる父と心得なさいませ」
「はい。いただきます父上」

政は引き続きこの家康が務める、と念を押す家康。
「誠に結構」と笑う茶々。柱に秀頼の成長の記録として背丈を刻んでいる。片桐且元(川島潤哉)がそれを見せる。茶々は、あと10年もすれば太閤殿下にも追いつき、太閤殿下が果たせなかった夢を秀頼が果たせるだろう、それまで「代わりを」と、あくまで家康はつなぎだと言い含めた。

茶々は秀吉の遺言に従い、秀忠の4つになる娘・千姫と秀頼の婚儀を進めようと切り出す。

「両家が手を取り合うことが何より大事でありますからな」
しかし家康と秀忠が出ていくと茶々の表情は豹変し、秀頼に「あの狸、決して信じるでないぞ」と怖い顔で言い聞かす。

「いやあ、ようございましたな父上」
廊下を歩きながら、両家が手を取り合うのはよいことだとのんきに喜んでいる秀忠に、家康は茶々の本音を代弁する。

「早う人質をよこせと言っておるのじゃ」

正信が将軍になれと提案

伏見城に戻った家康は本多正信(松山ケンイチ)に相談する。

「いかがでございましょう、いっそ将軍になるというのは?」

足利家のせいで将軍職は廃れてしまってはいるが、それでも幕府を開けば、できることは格段に増える。

「徳川は武家の棟粱。豊臣はあくまで公家。⋯住み分けられるかもしれんな」

将軍職、どの辺に落ちたのか探してきましょうと正信はどこかに向かった。その頃老いた本多忠勝(山田裕貴)は蜻蛉切りを磨きながら指を切った。

於大の嘘と最期

慶長七年(1602)六月、家康に招かれて上洛した於大(松嶋菜々子)は伏見城で寧々(和久井映見)に拝謁を賜り、穏やかで楽しいひとときを過ごしている。

寅年生まれの武神の化身だと嘘をついていたが実は兎年の子という話をして、「いつまで寅と信じておったのかの」と聞く於大。家康は、今の今まで寅の子だと信じていた。

息子の純朴さに驚くが、今となってはどうでもよいことと笑う於大。

「天子様にまでお目通りできるなんて、夢のようだわ⋯⋯もう思い残すことは何もない」
夫・久松長家の死後落飾して伝通院と号している於大は、すでに74になっていた。

「さようなことを言わず、精をつけて長生きしてください」家康は薬湯を作ってあげる。

「すまなんだのう。国のためにすべてを打ち捨てよと、そんなことばかり言ってきた。されどそれが正しかったかどうか。戦を怖がって逃げ回っていた頃がそなたにとっては一番…」「もう捨てるでないぞ。そなたの大事なものを、大切にしなされ。独りぼっちにならぬようにな」

「苦い薬だこと…」。薬湯を言い訳をしながら涙ぐむ老いた母に家康は言葉もない。この3ヶ月後、於大は満足したかのように、伏見城で家康に看取られながらその生涯を閉じた。

慶長八年(1603)、家康は朝廷より征夷大将軍に任じられ、徳川幕府が始まった。新しき世を築くため、家康は外国人のウィリアム・アダムス(村雨辰剛)も含め才気煥発な若者たちを大いに登用し、念願であった太平の世の政を着々と推進した。

前途有望たる青年文官たちを束ねるのは、正信の息子・本多正純(井上祐貴)。イカサマ師の息子とは思えぬ律儀な性格だ。

忠勝と康政はもう引退?

本多忠勝と榊原康政も年老いていた。忠勝は、肖像画を描かせていた。似ているかよりも強そうかどうかにこだわり、だんだん本人とはかけ離れていったが、それでよいという。康政は、もう引き際だろうと言う。直政も関ヶ原の戦いで負った傷のせいで亡くなっていた。

秀頼と千姫の結婚

家康はさらに徳川の足元を盤石にするため、秀吉の遺言どおり、千姫と秀頼の婚姻も進めていた。千姫は7つになり、秀頼に輿入れする日が間近となったが、豊臣の家に行きたくないと家康に泣きながら訴える。

「母上がいつも、茶々お姉様は怖い怖いと!何をお考えか分からぬと」

秀忠の正室・江(マイコ)は、浅井三姉妹の末っ子で、長女の茶々のほか、若狭の大名・京極高次に嫁いだ次女の初という姉がいる。江はバツが悪そうにしながらも笑ってごまかし、千姫には優しくしてくれるに違いないとなだめる。

「⋯⋯⋯おじじ様のおそばにいとうございます⋯⋯」かわいい孫娘だが、家康は心を鬼にして徳川の姫としての心構えを説いた。

「何かあれば、このじじがすぐに駆けつけよう」
「⋯⋯まことでございますね?」

家康が秀忠を叱責

慶長八年(1603)。秀頼は12歳になっていた。茶々とともにいるのは大野修理/治長(玉山鉄二)。修理は一同で秀頼様を支えていこうと大名たちに声をかける。

年が明けた慶長九年(1604)正月、家康は平八郎、正純らと江戸城にやってきた。

秀忠をはじめ、正信(松山ケンイチ)、康政(杉野遥亮)、そして家康の次男の結城秀康(岐洲匠)も出迎える。

秀康が政の指南を受けに来たというのに、家康から「しかとやっておるか」と声をかけられた秀忠は、「お千は大丈夫でしょうか?」とひとこと。真っ先に聞くことが娘の心配かと、家康は厳しく咎める。

「関ヶ原に遅れたときから何も成長しておらんな」
本来なら全軍を率いてこなければならないのに、秀忠が従者だけで先を急いだことを、家臣たちの前で叱りつける。
「正信も康政もそうしてよいと…」と弁解する秀忠に、「人のせいにするな! すべてお前のせいじゃ」と怒鳴る。

忠勝は書状を読んでいるが、目が悪くてよく読めないようだ。隠居を言い渡してほしいと家康に言う。そこに来た康政は、生涯最後の諫言として家康に抗議する。

皆の面前で叱りつけるのは秀忠の誇りを傷つけること、関ヶ原の戦いに間に合わなかったのは秀忠の落ち度でもないのにそれをいつまでも。あまりに理不尽だ、殿だって秀忠の年頃にはどれだけ頼りなかったものか…。

「⋯⋯だが、わしにはお前たちがいた」

酒井忠次(左衛門尉/大森南朋)、石川数正(松重豊)、鳥居忠吉翁(イッセー尾形)。父親のいない家康を、皆が厳しく叱り続けてくれた。しかし秀忠を叱る者は家康しかいない。

すべてにおいて経験不足の秀忠が成長するのを、悠長に待てない。関ヶ原はまだ終わっていないからだ。

大坂城は、今年の正月は酒盛りなどで大いに賑わっていた。もっと難儀なのは、敗れて改易・減封となった牢人たちが九度山山中などにあふれかえっている。このまま秀頼が成長したときは2つに1つ。おとなしく天下を豊臣に返してやるか、それとも…。

「平八郎、隠居など認めぬぞ。小平太もまだ老いるな。まだ、お前たちの力がいる」家康は2人の肩を叩いた。

手の焼ける主じゃ。まったくいつになったら主君と認められるやら。…とぼやきながらも少し嬉しそうな康政と忠勝。

【どうする家康】44話のネタバレ

【どうする家康】44話のネタバレです。

偉大なる凡庸

関ヶ原の戦いについて、秀忠を再び咎める家康。しかしそれは秀忠のため。上に立つ者の役目は、結果において己がすべての責めを負うことだと諭す。そして一年のうちに征夷大将軍の職を秀忠に譲ると伝えた。

わしを選んだのは兄(結城秀康)が正当な妻の子供でないからか?と言う秀忠に、そうではないと説明する正信と康政。

結城秀康を選ばなかったのは、才あるため。才ある将が一代で築く世は長続きしない。その点、秀忠は「すべてが人並み」、いうなれば「偉大なる凡庸」だと正信。於愛の子らしく大らかで、豊臣家ともうまくやっていけるだろうと康政。また、関ヶ原の戦いでも恨みをかっていない。間に合わなくてよかったのかもしれないと納得して笑う、楽天家の秀忠。

慶長十年(1605)年四月十六日、伏見城にて徳川秀忠は第二代将軍に就任した。

しかし豊臣が黙っているわけがない。これは天下は徳川家が受け継いでいくという宣言にほかならない。大野修理/治長(玉山鉄二)は、秀忠の将軍就任は徳川の約定破りだといきりたった。

茶々も激怒する。
「図々しくも、秀頼にも挨拶に参れと言ってきおった。無論断ったわ、秀頼を行かせるくらいなら、秀頼を殺して私も死ぬとな」

忠勝と康政の最期

忠勝は相変わらず肖像画を描き直させている。すでに別人だし絵師も本人を見ずに描いている。よろよろと立ち去ろうとする康政に「どこが悪い」と忠勝が聞くと「はらわた」だと答える。一方の忠勝も、目が見えなくなってきていた。戦で傷1つ作ったことがないのに、目が悪くて槍の手入れで手を切った。

もう役目は終えたのだ、と帰ろうとする康政を呼び止める忠勝。

待て!と蜻蛉斬りを持ち出すと、わしは、認めん!殿を守って死ぬのがわしの夢じゃ。老いなど認めん、死ぬな。

忠勝と康政は、やり合った後に話す。

認めておるのであろう、殿のことを主君と。いつからじゃと聞く康政。
2人とも、桶狭間の後の大樹寺のときで同じだった。
「わしは、寅の年、寅の日、寅の刻に生まれた武神じゃ。そなたたちのことはわしが守るんじゃー」と家康が、殿たる覚悟を決めたときだった。

康政「まだ見ていたいのう、あの背中を」
忠勝「睨みをきかせてな」

忠勝が強そうな肖像画を描かせていたのは、自分が死んだ後も睨みをきかせておきたかったからだった。

慶長十一年(1606)年に榊原康政が、慶長十五年(1610)に本多忠勝が死去した。

慶長十六年(1611)。秀頼は19歳になっていた。「どこからどう見ても見事な天下人であることよ」と喜ぶ茶々。千姫(原菜乃華)もうなづいた。

背の高い立派な青年となった秀頼はみなに声をかける。「さぁ、宴のときじゃ」。

一方、家康もまた「時が満ちた」と腰を上げた。

【どうする家康】44話の感想とレビュー

今回は、於大の方の最期、秀忠の第二代将軍就任、本多忠勝と榊原康政の最期が描かれました。

於大の方がついた「寅の子」の嘘が、家康を殿として奮い立たせ、小平太と平八郎の思いにつながっていたとは!
もちろん大樹寺のシーンも見ていて、そのときは家康の覚悟を感じていたけれど、家康の長い人生の中ですっかり忘れていました。

回想シーンでそれを見ると、胸がアツくなりますね。

そして、忠勝が肖像画を「強そうに」描き直させていたのは、自分が死んでからも家康に睨みをきかせていくためだったとは。史実かどうかはわかりませんが、面白いエピソードでした。

また、秀忠をポンコツに描きすぎでは?と思っていたのですが、「偉大なる凡庸」ってすごい表現ですね。人によっては激怒するような表現かもしれませんが、関ヶ原に遅れたから憎まれていないのもよい方向に受け取る秀忠。やはり愛される人柄なのかもしれません。

記事内画像出典: (C)NHK

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