【日曜の夜ぐらいは…】8話レビュー|毎日楽しいと思う事が一番の復讐…幸せになる事が、なぜ復讐になるのか?
【日曜の夜ぐらいは…】8話レビュー
清野菜名主演のドラマ【日曜の夜ぐらいは…】第8話[毎日楽しいと思う事が一番の復讐…やっつけよう過去]が6月18日(日)に放送されました。
8話では、サチ(清野菜名)が若葉(生見愛瑠)に「毎日楽しいと思う事が一番の復讐」と告げました。しかし、幸せになる事が、なぜ復讐になるのでしょうか。考察してみました。
今回は【日曜の夜ぐらいは…】8話の視聴率・内容・レビュー(感想)・出演者・スタッフなどについて紹介します。
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【日曜の夜ぐらいは…】8話の視聴率
【日曜の夜ぐらいは…】8話の視聴率は分かり次第更新します。
【日曜の夜ぐらいは…】8話の放送内容
【日曜の夜ぐらいは…】8話の放送内容は…
バイト先の急な人員不足を一人でカバーする岸田サチ(清野菜名)は連日大忙し。カフェの準備もままならず、肉体的にもくたくたになるが、一方で、かつて無理やりシフトに入っていた時には感じなかった、不思議な使命感と充実感に目覚めていく。そんなある日、野田翔子(岸井ゆきの)、樋口若葉(生見愛瑠)をはじめ、カフェ「サンデイズ」に関わるメンバーが、サチの声掛けで岸田家に招集される。しかし、当の本人サチはバイトで不在。その頑張りに感動しながらも、では「何のための招集?」と不思議に思う翔子、市川みね(岡山天音)、サチの母・邦子(和久井映見)、若葉の祖母・富士子(宮本信子)だったが、そこで若葉から「事前にサチから一人一人に対してメッセージと、カフェ開店までのミッションを授かっている」と伝えられ…。
という内容でした。
【日曜の夜ぐらいは…】8話のレビュー
【日曜の夜ぐらいは…】8話のレビューです。
毎日楽しいと思う事が一番の復讐
第8話にて、サチはバイトで多忙のため、若葉を書記に指名して、メッセージとミッションを仲間に伝えます。
その中の若葉に向けられたメッセージが「嫌な過去はなかったことにはならないんだと思うんだ。わぶちゃんが幸せになることが復讐だよね。毎日楽しいなって思えることが一番の復讐」。
若葉の過去を無理には聞かない優しさを見せつつ、前向きにさせる良いメッセージでした。
しかしなぜ復讐になるのでしょうか?
幸せになる事が、なぜ復讐になるのだろうか?
幸せになる事が、なぜ復讐になるのか?ふと疑問に思ったので、少し考察していきます。
日本は法治国家
「幸せになれた」、だからといって、復讐の対象者にとっては痛くも痒くもないことでしょう。
若葉がどんなヒドイことをされて、恋愛したくない、男性が恐い…となっているのかは明確に描かれてはいませんが・・・若葉をいじめてきた相手に、いじめ返すことが復讐です。別ドラマですが、半沢直樹は「倍返しだ!」とやり返しました。ハンムラビ法典の「目には目を歯には歯を」は、同害復讐の原則に基づき、被害者以上の過剰な復讐を禁じたものです。同等なら、やり返してもいいのではないか?と思ってしまいます。それが復讐ではないか?と。
そこで、ここは日本だということに着目したいです。刑事ドラマの犯人の動機がたとえ復讐であったとしても、復讐で人を殺したら逮捕され、罪に問われます。どんなに、それなら復讐しても仕方ないと思える、切ない理由であったとしても…。
つまり、日本は法治国家なので、個人が勝手に復讐すると、その個人が加害者として逮捕されてしまうということ。日本では個人でなく、法で裁かないといけない…そういうルールです。
法的な社会的な面で復讐はいけないとみてきました・・・次は感情の観点からみていきましょう。
復讐とは恨みを晴らすための仕返し
報復と復讐は違うという意見があります。
「復讐」「報復」「仕返し」の違いとは – 違いがわかる事典
違いがわかる事典よより
復讐は、与えられた害に対する行為というよりも、害を与えられたことによる深い恨みを晴らすという、感情的な部分に重みを置いた印象となる。 報復は、感情的なことよりも、与えられた害に対しての行為で、復讐に比べ、計画的で冷静沈着な印象となる。
復讐は、報復よりも感情に重きが置かれているとのこと。なるほど、たしかに…復讐の方が恨みが強い言葉のイメージがあります
ちなみに復讐の「讐」という漢字は、「シュウ(シウ)・あだ・かたき」等の読み方があります。意味は、対抗して互いに敵となること。その相手。あだ。かたき。
敵討(かたきうち)または仇討ち(あだうち)という言葉がありますが、復讐のイメージと似ていますね。
つまり、復讐とは恨みを晴らすための仕返しと言えるでしょう。
復讐は「むなしさ」が残る
しかし、復讐すれば恨みを晴らすことができるのでしょうか。
例えば殺人事件の被害者が犯人を殺して復讐を果たした場合、満足感はあるかもしれませんが…。「むなしさ」も残ることでしょう。被害者は戻ってこないですし。
ただし、筆者は殺人事件の被害者ではないので、この点については想像の域を越えません。被害者が戻って来ないと分かっていても、どうしても復讐したい…のかもしれません。同じ立場にならないと本当の気持ちは分かりません。
ベクトルを自分に向けるということ
復讐とは、恨みを晴らすこと。恨みを晴らすために相手に同等かそれ以上の仕返しをすること。それはそうなのですが・・・それでは悲劇の連鎖が終わりません。
サチは、自分にベクトルを向けるように、という意味で、「わぶちゃんが幸せになることが復讐だよね」と言ったのだと思います。前向きになって欲しかったのだと思います。
スティーブン・R・コヴィー博士の著書【7つの習慣】の受け売りですが、私たちの関心事は2つの輪に分けることができます。「影響の輪」と「関心の輪」です。
- 影響の輪は「自分が影響をおよぼすことのできる事柄」。
- 関心の輪は「自分が変えたり影響したりすることができない事柄」。
影響の輪に集中することで、主体的な生き方ができるとコヴィー博士は説いています。
もっと簡単にいうと、自分にできること、に集中することで未来が開けていくということ。
サチ(清野菜名)は、「嫌な過去はなかったことにはならないんだと思うんだ。わぶちゃんが幸せになることが復讐だよね」と言いました。
この「嫌な過去」が関心の輪です。自分の影響を与えることができない事柄ですから。
過去はなくならないし、過去の事実を変えることはできません。けれど、今を変えることで、わぶちゃん=若葉が幸せになることで、過去の解釈を変えることはできます。
過去に嫌なことがあったけど、サチたちに出会えた。そうしうて幸せになれた、と。
例えば、浮気された捨てられた人が、今は別の素敵な人と出会えたのなら、それは捨てた人への復讐…となるのでしょう。捨てた人がきっと悔しいと思うから。
愛の反対は無関心
捨てた人がきっと悔しいと思うのは分かるけど、いじめられっ子が幸せになったら、「なんだ、あいつ。いじめられっ子だったくせに幸せになりやがって」、などと悔しがるとは思うのですが…。
もちろん、人それぞれです。なので、最後に別の観点から。
「愛の反対は憎しみではなく無関心」とマザー・テレサが言っていました。
復讐とは相手にも同等、またはそれ以上の被害を受けてほしいということではなく、 相手から受けた仕打ちなんて「無関心」「取るに足らないこと」と思えて、スルーしてしまえるようになれたら、それは「愛の反対」です。つまり「復讐」なのだと思います。
例えば、いじめっ子と再会しても「誰だっけ?」「そんなことあった?」と無関心でいられたなら、もう究極の復讐ですよね。いじめっ子の存在が無視され、消されたことになるので。
以上、色々と考察してみました。皆さんはどう感じ、考えましたか?
【日曜の夜ぐらいは…】8話の出演者・スタッフ
【出演者】:清野菜名 岸井ゆきの 生見愛瑠 岡山天音 川村壱馬(THE RAMPAGE) やついいちろう(エレキコミック) 今立進(エレキコミック) 渡辺佑太朗 和久井映見 宮本信子 ほか
【脚本】岡田惠和【監督】中村圭良【音楽】日向萌 【主題歌】Mrs. GREEN APPLE『ケセラセラ』(ユニバーサルミュージック/EMI Records)【企画・プロデュース】清水一幸 【プロデューサー】山崎宏太、山口正紘、郷田悠(FCC)、浅野澄美(FCC)
記事内画像出典:『日曜の夜ぐらいは…』公式サイト
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