映画「敵」ネタバレ考察!敵の正体とは?原作との違いも徹底解説!
2025年1月17日(金)から公開された映画【敵】。
原作に忠実でありながら、映画ならではの展開も用意された、吉田大八監督の「答え」に大満足!
本記事では、【敵】のネタバレ考察や原作小説との違いなどについて書いていきます。
映画「敵」のストーリーは?:ネタバレ
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以下、映画本編の結末にふれています!未鑑賞の方はネタバレにご注意ください!
渡辺儀助(演/長塚京三)は、Xデーに自裁を決めています。
Xデーとは、貯金が尽きた日のこと。
日々の支出を徹底管理して、自らの残り時間を数える生き方に迫力を感じ、楽しんでいる儀助。
大学でフランス文学を教えていた儀助は、たくさんの本に囲まれて暮らしています。
広い一軒家は儀助によって、まあまあ整えられ続けていますが、庭の倉庫は物だらけで、古井戸も放置したまま。
儀助は決して、完璧主義ではないのです。
儀助の元には、昔の教え子が通ってきます。
1人は椛島光則(演/松尾諭)、何かと儀助の世話を焼いてくれ、儀助の中でも友人的な立ち位置の男。
もう1人は鷹司靖子(演/瀧内公美)、なんともエロい女。
靖子の存在が、儀助の人生そのものって感じ
ある日、椛島が古井戸を修理しにきていたときのこと。
「見知らぬ男が庭に立っていた」という椛島に、儀助は「物騒だな」と返しました。
儀助はもともと、まあまあの金持ちであり、倹約家ではありません。
“夜間飛行”というオーセンティックバーに通い、古い友人・湯島定一(演/松尾貴史)と酒をたしなみます。
ある日、店に見慣れぬ女性が。
彼女は店のマスターの姪で、名を菅井歩美(演/河合優実)といいました。
大学でフランス文学を学んでいる歩美に夢中になった儀助は、“残り時間”を減らしながら夜間飛行に通います。
歩美に「学費が払えない」といわれれば、資金援助までする始末。
いやな予感
現在の数少ない仕事のひとつ、旅行雑誌の連載が打ち切られた儀助は、おまけに歩美にもトンズラされてしまうのです。
ほらね
転 敵
※本編未鑑賞の方は開かないでください
災難は続き、友人の湯島が大病を患ってしまいます。
見舞に行った儀助の前で、湯島は目玉をひんむきながら「て…き…」とつぶやくのです。
じつは、儀助も「敵」について思うところがありました。
日々送りつけられてくるスパムメールの中に、「敵が北からやってくる」という内容のものが混じっていることが増えたのです。
ふだんはスパムメールなど気にも留めない儀助でしたが、このところの不幸でまいっていたのか、「敵」のことが頭から離れません。
そんな中、歩美に金を持ち逃げされて、いよいよXデーが訪れそうな儀助は、首をくくる予行演習に励みます。
いざ意識を失いかけたころ、家の中で物音がするので“死ぬのをやめ”確認しに行くと、そこには汚れた軍服を着た兵士たちが。
ついに「敵」がきたと、儀助はパニックに陥り、包丁を持って応戦します。
「敵」は、いつも急に来て、急に消えてしまいます
そのころから、儀助は常に夢うつつとなり、死んだ妻・信子(演/黒沢あすか)が家に現れたり、靖子と信子が鉢合わせてもめ事が起こったり…。
現実の狭間に「敵」が押し寄せてきて、「殺される」というときにハッと目覚めたり…。
認知症ではなく、儀助の妄想が暴走しているかんじ
儀助が現実を掌握できる時間はどんどん減っていき、儀助が認識できるのは世界が美しいこと、ただそれだけになるのです。
結 春
※本編未鑑賞の方は開かないでください
春がきたとき、儀助は自裁していました。
晩年、毎日のように加筆修正していた儀助の遺書が、少ない親戚のもと開かれます。
そこには、渡辺槙男(演/中島歩)という青年が。
儀助は、遺していく書物の価値をわかってくれそうな槇男に、家の保持を頼む旨を記していました。
託された一軒家を確認するように、庭を散策する槇男。
ふと、家の窓に死んだはずの儀助を見た気がした槇男が息をのんだ瞬間、儀助も槇男もパッと消えていなくなります。
なんと槇男が消えたその場所は、椛島が「見知らぬ男が庭に立っていた」といった場所だったのです。
おしゃれなエンディングにふわふわしました
原作小説・筒井康隆の「敵」はどんな内容?
老人・渡辺儀助は孤独と孤高とを行き来する。
夢と現実をさまよいながら、もうろくか妄想か、儀助はひとり幸福のただなかにいた…。
映画「敵」ネタバレ:敵の正体は?筒井康隆の原作小説ラストは?
敵とは死、もしくは生。
原作小説でも、「敵」の正体は描かれていません。
吉田大八監督は、1990年代に筒井先生の小説「敵」を読んだとき、“敵とはなんだったのか”と深く考えたのだそう。
小説「敵」の要は、読む人によって「敵」の正体が変わり得るところでしょう。
ひいては、読む人によって異なる渡辺儀助という人物が、儀助自身の妄想のように読者の脳内で生活を始めてしまうような没入感につながります。
つまり、読者の数だけ無限大の「敵」が現れるという恐怖!
吉田大八監督が出した「敵」の答え、すごく好きでした!
映画は、儀助を演じた長塚さんと吉田監督の中で、儀助という人物を冷ややかに、冷静にとらえていたように感じます。
それゆえ、観客が「もう、先生ってばまったくダメな人なんだから」のように、儀助の味方とさせられてしまう構図。
人間味があり、完璧じゃない儀助に、先々の自分を重ねては「怒る気になれない」というのが、多くの観客の心情ではないでしょうか。
儀助にとっての「敵」とは、自分で決めたはずの“死”そのものであり、対極で儀助を引きとめる“生”でもあると感じました。
きっと、そのどちらもが美しいのでしょう。
見る人の体調によっても正体が変わりそう
映画「敵」ネタバレ:筒井康隆の原作小説との違いも徹底考察!
続いて、原作小説との違いをふくめ考察していきます。
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儀助にとってカネとは
プライドを保つための道具であり、残り時間という敵。
大学教授としてそれなりの財を成し、子はなく、とびきり贅沢な趣味などもない儀助。
立派な一軒家を守り続け、生前の妻に苦労もかけなかったというのは、このあたりの収支のおかげでしょう。
貯金が尽きたら自裁するとしながら、決して生活水準を下げて長生きを図ったりはしないのが、儀助の粋なところ。
自分で決めたルールに抗う儀助も、ちょっと見てみたいけど
「先生」と呼ばれ続けた人生で、優雅に良酒をたしなみ、伊勢丹で高価な野菜を買い、腹は出さず息もととのえて、他人の視線を確実に意識してきた儀助。
他人の目ありてこそ、儀助の自裁は予定通りおこなわれました。(後述)
カネに命を委ねた儀助の生きざまがホットか哀れかは、観客の価値観で変わるところ。
原作では儀助の講演料は20万円でしたが、映画では10万円に値下げ。リアリティとはかくも悲しき。
夜間飛行
湯島定一とともに通うバー・夜間飛行は、儀助にとって唯一の社交場。
儀助の支出リストに“夜間飛行代”はふくまれているらしく、当たり前のように湯島のぶんのお勘定をするシーンも。
ここでは、期せずして死期を早めるきっかけとなる菅井歩美との出会いもありました。
夜間飛行が店じまいする展開は、映画オリジナル。
歩美が儀助からカネをもらって消える流れも映画オリジナル。儀助の人間味が増した演出でした。
スパムメール
執筆が興に乗ってきた儀助の腰を折るのが、大量のスパムメール。
3,000万が当選したり、痴女からお誘いがきたりしていました
愛用のMacでイケナイサイトなどをチラ見している弊害かもしれません。
「敵」にまつわる不穏なメールも、もちろんスパムメールのひとつ。
つねにファクトチェックは欠かさなかった儀助が「敵」メールに引っかかってしまったのは、精神的な落ち込みがあったからでしょう。
原作では5ちゃんねる風のスレッドで「敵」の議論が起こります。スパムメールは、現代にあわせた映画オリジナルの表現。
犬にかき回される人たち
隣人が、家の前に放置された犬のフンに憤怒している描写にはじまり、本作には犬が欠かせません。
のちに儀助の妄想にまで登場することとなる、黒い犬を連れた近隣住民の女性は、なんともカラフルそうなファッションで印象的。
原作では大型犬のイメージだったけど、実写はかわいいワンコロでした
そして、儀助の脳内をひっかきまわす犬丸(カトウシンスケ)という人物が、非常に良いエッセンスでありました。
靖子と信子がバトルする食卓シーンにはなぜか犬丸がいて、バクバクお夕食を平らげちゃう。
ほろ酔いで「文学と現実はどっちが偉いんですかね?」なんてこまっしゃくれた質問をしてくる奴は、うざいです。
劇場では犬丸が登場する度に爆笑が!
原作ではかつての教え子であった犬丸が、映画では出版社の人間に変更されています。
犬丸が乱入する晩餐に、原作では歩美がいたのも違い。
犬丸が殺されるのも映画オリジナル。
幕引き
作中には、儀助が雨の降る庭を眺めるバックショットがありました。
妄想と現実のどちらにも支配され、もはや自分の脳内をコントロールすることがむずかしくなった儀助が、自然に身をゆだねている美しいシーンです。
原作は、この場面で終了しています。
以降、春が来る展開から先は映画オリジナル!
自分との約束を果たした儀助を描くことで、観客が儀助を愛さざるを得ないかんじにしているのがニクイ。
オカルトめいたエンディングも、映画ならではの表現と感じとても好きでした。
物語の結末は、両者びみょうに異なります。
しかし、筒井先生が意図した「敵」の正体、その不明瞭さゆえの不気味感は引き継がれていました。
映画「敵」ネタバレ:考察,筒井康隆の小説との違い,敵の正体まとめ
原作から抜け出してきたような儀助と、儀助が愛した隣人たち。
当たり前の孤独におびえ、退屈に戦慄し、記憶に叱られる儀助に、自分を重ねて楽しみました。
モノクロームで映される儀助の自宅は美しく、生活感こそがアートであると再確認したものです。
どうぞ、劇場のスクリーンで、美しすぎる世界を感じてください。