【おちょやん】の原作・モデル!浪花千栄子は夫との別れが悲惨!?
【おちょやん】の原作・モデル!浪花千栄子は夫との別れが悲惨!?
杉咲花主演のNHK朝ドラ【おちょやん】の主人公・竹井千代のモデルは浪花千栄子さん。
調べると「大阪のお母さん」と呼ばれた大女優でありながら、極貧生活や奉公時代に加え、夫からは悲惨な別れ方をされたりと、波乱万丈に生きた方と判明!
ヒロインの千代(杉咲花)の参考になった人物で、厳密にはモデルではないのですが…
ココでは便宜上モデルとして、【おちょやん】の原作・モデル:浪花千栄子の経歴などを紹介します。
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朝ドラ【おちょやん】の原作・モデルは浪花千栄子!
NHK朝ドラ『おちょやん』の原作の紹介です。
ヒロイン・千代(杉咲花)のモデルは、浪花千栄子(なにわちえこ)さんです。どんな方か、まずプロフィールを紹介!
浪花千栄子のプロフィール
氏名:浪花千栄子(なにわ ちえこ)/別名義:香住千栄子(かずみ ちえこ)三笠澄子(みかさ すみこ)/本名:南口きくの(なんこう きくの)
生年月日:1907年11月19日
没年月日:1973年12月22日(享年66)
出身地:南河内郡大伴村東板持(現在の富田林市東板持町)
家族:両親と3歳下の弟(実母とは満4歳の頃に死別)
配偶者:渋谷天外 (婚姻期間:1930年 – 1950年)
養女:輝美(てるみ)…実弟の娘を養子に向かえた。
職業:女優、料理旅館「竹生(ちくぶ)」の経営(現在閉店)
代表作:ラジオドラマ『お父さんはお人好し』(昭和29年-昭和40年、NHK) 映画『祇園囃子』(昭和28年、監督:溝口健二)、映画『蜘蛛巣城』 (昭和32年、監督:黒澤明)、テレビドラマ『太閤記』(昭和40年、NHK大河ドラマ)
受賞歴:ブルーリボン賞 助演女優賞 (1953年『祇園囃子』の演技で)、没後に勲四等瑞宝章を受章。
朝ドラ【おちょやん】の原作・モデル浪花千栄子の経歴(1)幼少期
年代:明治40年(1907年)~大正4年(1915年)ごろ
舞台:大阪府南河内(現在の富田林)
ヒロイン千代のモデル・浪花千栄子さん(本名:南口キクノさん)は、明治40年(1907年)11月に南河内郡大伴村の東板持という集落(現在の富田林市)で出生。満4歳のころに母と死別しています。
千栄子(呼称はキクノですが、当記事では浪花千栄子に統一)の父親は鶏(にわとり)を育てて売って暮らしていましたが、貧乏生活でした。父は大阪まで往復50キロ歩いて売りに行っていたため、千栄子は朝から晩まで弟のめんどうを見ながら家事をします。
もちろん小学校には行けないのですが、当時、尋常小学校は義務教育でした。明治33年(1900年)に授業料が無償化。進学率が上昇していたころなのにです。学校へやれない申し訳なさからか、父は娘を厳しくしつけました。鍋の洗い方が悪いと殴られ、ご飯つぶひとつ粗末にしたら半殺しに遭ってことが自伝に記されています。
学齢前の子が家の庭に遊びにきていたこともあったのですが、寄り付かなくなりました。髪を洗ったことがないため、しらみ(=頭髪に寄生する虫、アタマジラミ)がわいたのです。悪いことをした気になって近所の竹やぶに隠れました。結局、祖母が寄生虫を取り除いてくれました。
朝ドラ『おちょやん』第1週第1話でも、しらみが出るから千代が学校行けないという噂がたち、いじめられるエピソードがありますね。
そのころ、千栄子は一年中、竹と遊び、竹と語り、竹を愛します。(約50年後、京都に住まいを建てた浪花千栄子は、大好きな竹に囲まれて暮らしました。)
8歳の頃、父の再婚で小学校(板持尋常小学校)へ通えるようになります。しかし2カ月しか学べませんでした。(生涯の学歴もこの2カ月です。)
なぜなら継母が失踪し、父も妻を探しに行って両親はしばらく帰ってこなくなったから。この家出と父が探すパターンは繰り返されました。
両親が何日もいないとき、食料が尽きて、空腹で池に繁るひしの実も食べ尽くします。それでも親が帰ってこないので、祖母の家へ行く途中に豚の飼料(サンドイッチの端切れ)を発見!
朝ドラ『おちょやん』第4話でもパンのエピソードが取り入れれています。
浪花千栄子さんは自伝で「あんなに美味しい匂いはない」と振り返っているほど。表現も豊かです▼
こうばしい、ほんのりと甘いような、そしてかめばかむほど、味わい深く、そしてほどよいかみごたえ、たぶん弟もそうだったと思いますが、私たちはこの世で一番の幸福を感じて、うっとりしながらむざぼるように、そのパンの耳をかじったことでございました。
浪花千栄子「水のように」(朝日新聞出版)P20
結局、祖父に見つかって千栄子と弟は家に戻りました。
そしてついに継母から「弟は仕方ないがこの娘とはいや」と言われた浪花千栄子は、祖母の家へ押し付けられます。
朝ドラ『おちょやん』第5話では、千代が弟だけでも家に残してくれるように懇願する、と改変しています。
朝ドラ【おちょやん】の原作・モデル浪花千栄子の経歴(2)おちょやん時代
年代:大正4年(1915年)ごろ~大正15年(1926年)ごろ
舞台:道頓堀、富田林寺内(じない)町
浪花千栄子は祖母の家に連れていかれました。祖母は叔母と相談し、大阪市内に女中奉公に出すことになります。8歳(数えで9歳)のときです。
大阪・道頓堀の仕出し弁当屋にて、女中と子守りの兼用で、8年間働きます。朝ドラのタイトル「おちょやん」は年若い女中を意味する昔の大阪弁です。浪花千栄子は、おちょやんの中でも、さらに小さい年齢から働きました。
【補足】朝ドラ『わろてんか』のモデル・吉本せい(1889- 1950)が、道頓堀のひとつ裏手の路地に「花月」をオープンさせたのが1915年(大正4年)ごろ。浪花千栄子が女中奉公へ出たのも同じころです。朝ドラヒロインが同時期にすれ違っていますが、吉本せいはすでに数か所の寄席を経営する女興行師。千栄子はただの女中。2人に接点はなさそうです。
睡眠時間は4時間、こまねずみのように働きづめの日々。しかも無給で、貧しい衣食住が用意されているだけ。浪花千栄子さんは自伝で、あの豚の飼料のパンの切れ端より美味しいものは食べられなかった、と振り返っています。
「おえはん(お家はん)」(女主人の意味)は奉公人を大変きびしく、しつけました。
子供心につくづく悲しくなったのは、ご飯をたいていおはちにうつし、そのあとのおかまを洗うとき、じゅうぶん注意しているのですが、御飯粒が流れ、それが、水の流れ口(中略)の、金網の袋にたまる仕掛けになっているのですが、そのいわば、ものの洗いカスの中から御飯粒だけよりわけて食べさせられることでした。
浪花千栄子「水のように」(朝日新聞出版)P29
今の価値観では、しつけというより、いじめですね。それでも、浪花千栄子さんはその「おえはん」を私の社会学の師匠だったと語っています。御飯粒を食べさせるのでなく、すずめのエサにしてくれたらよかったのに、とは思ったようですが(笑)
学歴がない浪花千栄子は、女中の合間に、唯一自分の時間が持てるトイレの時間を使って、漢字を勉強していきます。焼き芋などを包む古新聞の切れ端を入手し、一文字ずつ、ひと熟語ずつと覚えていきます。(当時の新聞はすべての漢字にふりがなが振られていました)。「おちょやんの便所は長い」と噂されたそうです。すごい執念ですね。
そんな中、浪花千栄子の唯一の楽しみが、道頓堀の劇場に届けた弁当箱を下げに行ったときに、上演中の芝居をのぞき見ること。歌舞伎や新派、新国劇などの芝居を食い入るように見つめました。下げに行く時間はほぼ一定なので、同じ芝居の同じセリフや動作を丸暗記。セリフの間違いや俳優の気分の上がり下がりも観察しました。
浪花千栄子は「屈辱」も味わいました。買い物で釣り銭(2銭)を落としてしまったとき、主人は納得しないだろうと思って、歌で稼ぐことを考えました。継母がいつも歌っていた「お月さん、ちょいと出て、松の影…」というのを歌いましたが、子どもがふざけていると思われて追い返されます。
そして飛び込むこと4軒目、薬屋の主人が事情を聴いてお金をくれました。いわば浪花千栄子、初舞台の報酬です。しかし主人は「本当に落としたのか」と釣り銭泥棒を疑います。まさに、濡れ衣で、悔しさが募りました。
それから2、3年後。16歳を迎えたころ、「自殺」を決意します。髪や着物をオシャレにしたいと主人に告げると「色気づきよって」と言われたことがあまりに悔しかったのです。フラッシュバックのようにこれまでの屈辱も思い出し、死ぬことで解放される、と便所で首吊りを試みようとします。しかし、浪花千栄子のもとに、家の猫がまとわりついてきます。追い払おうとするうちに死ぬ気が失せました。
この一件以来、浪花千栄子は恩返しのつもりで猫を一生可愛がります。京都で建てた料理旅館でも猫を飼っていたそうです。
結局、浪花千栄子は8年も奉公しました。この年数は前代未聞なのですが、支えになったのは2つ。小学校レベルの読み書きができるようにならないといけないこと、そして好きなお芝居がただで毎日みられることだった。
そんな中、父親が奉公先へやってきた。8年ぶりの再会だ。17歳になった娘の心配というより、そろそろ貯金できただろうお金を無心しにきたのだ。無給だとわかり、主人と交渉した父は、15円の退職金を出させた。
そして浪花千栄子は、父に連れられて富田林の故郷へ。父が探してきた奉公先を転々とするが、お金はすべて父のふところに入った。
奉公先の屋敷の御寮さんは、千栄子の2年間の年季(=奉公期間)が明けたら縁談を勧めようとしていた。そんな中、千栄子はそこの2年分の給金を父が前借りしていたと知る。この件で、父と縁を切ることを決断する。
数えで20歳になった千栄子。年季明けの前月、御寮さんが5円を渡してくれて、「よう考えて自分を大事に扱かわんとあきませんよ」と言ってくれた。そのあたたかい言葉と金一封に涙した千栄子は、「父の言いなりになってはならない」と思って、逃げることを決めた。
浪花千栄子は、父が知らないところ、京都へと逃避行する。
朝ドラ【おちょやん】の原作・モデル浪花千栄子の経歴(3)カフェーの女給時代
年代:大正15年(1926年)ごろ~
舞台:京都
京都に行った浪花千栄子は、希望する求人がなく、仕方なく「師団前」駅の駅前にある「カフェー・オリエンタル」で女給になった。
補足:カフェーは酔客にお酌(しゃく)をして会話する、今のキャバクラ嬢みたいなもの。(『エール』でも古山音が社会勉強と称してバイトしてましたね)
浪花千栄子はカフェーは嫌な場所だったもよう。しかし発見はあった、と当時のことを自伝ではこう語っている▼
好きでもない人にお世辞を言って酒をついだり、心にもないことを言って人をだましたり、(中略)金のある人とみると、徹底的に食いさがるというようなことを極度にきらう潔癖症が自分にあるということの発見。
浪花千栄子「水のように」(朝日新聞出版)
(中略)自分の個性をよく知り、よい面の個性をつねにみがく、個性がいかに大切なのかという発見。
(中略)そこで発見されたものは、私という人間にとっては重大な意味があり、生きるための収穫でないわけはありません。
朝ドラ【おちょやん】の原作・モデル浪花千栄子の経歴(4)初舞台へ
年代:大正15年(1926年)~
舞台:京都府新京極、ほか
浪花千栄子は、カフェーの同僚の女給から勧められて、映画女優のプロダクションへ入る。芸名は三笠澄子。しかし一本も出演しないままプロダクションはつぶれます。
カフェーに戻るしかないかと思っていたとき、千栄子の採用に乗り気だった映画監督が小さな商業演劇の劇団を紹介してくれます。
1926年(大正15年)、村田栄子一座に弟子入りしました。
村田栄子は、大正期の大女優・松井須磨子が結成した劇団「芸術座」出身。当時はそれなりに名が知られた存在。
村田栄子を師と仰ぎ、本格的に勉強を始めます。端役の初舞台も見よう見まねで演じました。その後も舞台に出てセリフも増えていきます。
子供に人気だった漫画「正(しょう)ちゃん」シリーズの舞台劇化では、主役の女優が急病に!セリフを暗記していた千栄子は、代役で主人公を演じました。
しかし緊張でセリフを忘れたため、とっさにオーバーアクションで対応。飛んだり跳ねたりし、拍手喝采をあびます。この劇で人気女優となり、三友(さんゆう)劇場の劇場主から映画会社「東亜キネマ」を紹介されます。
朝ドラ【おちょやん】の原作・モデル浪花千栄子の経歴(5)映画女優へ
年代:大正15年/昭和元年(1926年)~昭和2年(1927年)
舞台:京都等持院撮影所、大阪
東亜キネマと専属契約を結んだ千栄子は、月給35円を支給された。当時の人気職業の電話交換手が月給23~24円、事務職が36~37円だったので見劣りしない額であった。
千栄子は、香住千栄子の芸名を与えられる。
1926年(大正15年)、脚本家・山上伊太郎のデビュー作『帰って来た英雄』で主人公の相手役に抜擢される。映画は好評で、次回作もすぐに決まった。
銀幕デビューから1年。同僚が理不尽なリストラに遭ったため、「なんであの人がクビにならんとあかんのですか」と撮影所所長に直談判。所長の説明では納得できず、(慰留されたが)退社の道を選んだ。
その後、市川右太衛門、市川百々之助に招かれて「帝国キネマ」に移籍する。住まいも京都の下宿を引き払い、帝国キネマの本拠地である大阪府へ移り住みます。
このころから芸名を浪花 千恵子に変えて名乗り始めました。「香住」が「かすむ=霞む」と儚(はかな)いイメージがあったから、そして「これからは大阪の女優になるのやから」市川百々之助に提案されました。浪花の「花」という文字は女性らしさ、華やかさがあり千栄子は気に入りました。
「帝国キネマ」で映画出演を続けましたが、最初の給料日に会社が給与を払いませんでした。千栄子は、1カ月も在籍しないまま専属契約を解消します。
朝ドラ【おちょやん】の原作・モデル浪花千栄子の経歴(6)渋谷天外との出会い
年代:昭和2年(1927年)~昭和21年(1946年)
舞台:大阪府 道頓堀→ 住吉→富田林
浪花千栄子は、代えがきかない女優になれば映画会社が約束を破ることはないと考えます。必要不可欠な本物の女優になるため、女優の仕事を選ばずに引き受けながら活動していきました。
道頓堀近くにあった芝居茶屋「岡嶋」に居候し、女優の仕事がないときは女中をして生活費を稼ぎました。
夫となる2代目渋谷天外(=成田凌さんが演じる天海一平のモデル)と出会ったのもこの頃。浪花千栄子は新聞でこう語っています。▼
そのころ私が居候していた岡嶋で、やっぱり居候していたのが渋谷天外さんなんです
東京新聞(1956.11.16)
1929年(昭和4年)、松竹傘下の「新潮座」の興行に参加。その後、大手映画会社の松竹と専属契約を結びます。松竹傘下の「新声劇」や「第一劇場」などの舞台にも立ちました。
1930年(昭和5年)、2代目渋谷天外、曾我廼家十吾(そがのや(=星田英利が演じる須賀廼家千之助のモデル)らが旗揚げしていた「松竹家庭劇」の専属女優になります。地方巡業にも同行することになり、朝鮮半島への興行にも行きました。
『喜劇の帝王 渋谷天外伝』(大槻茂、小学館文庫)には、この朝鮮半島への巡業中に、浪花千栄子と2代目渋谷天外が恋愛関係に発展したという証言が記されています。
同年12月、浪花千栄子は2代目渋谷天外と結婚。「岡嶋」から大阪・住吉に引っ越します。
1931年(昭和6年)10月、松竹家庭劇が解散。(座長の曾我廼家十吾と脚本の二代目渋谷天外の作風の違いもあり、2人の不仲が原因の解散だった)浪花千栄子と天外は新婚ながら仕事を失いましたが、夫婦水入らずの幸せな期間でもありました。
1932年(昭和7年)、天外と十吾の冷却期間後、松竹家庭劇を再スタート。道頓堀の浪花座で再興松竹家庭劇の旗揚げ公演が行われます。しかし、座長の十吾の権限が強化されました。天外にとっては面白くない状況です。
浪花千栄子の住吉の家庭には来客が増え、居候もいました。そして天外の女癖が現れ始めます。結婚前に「岡嶋」で居候していたときも天外の女癖は悪いものでした。さらに天外と共産主義者(「赤」と呼ばれていた)との付き合いも千栄子の心配の種です。
1938年(昭和13年)、松竹家庭劇の客入りは好調で、築地の東京劇場で年に2・3回の定期公演も開催。人気が全国区となっていきます。
1945年(昭和20年)3月、大阪に大規模な空襲があり、道頓堀は焼け野原に。松竹家庭劇が拠点といていた中座や浪花座など、浪花五座すべて焼け果てました。(松竹座だけ焼け残りました)
千栄子と天外は富田林の東板持に疎開。農家の納屋を借りて住みます。(自伝やインタビューでは、京都への逃避行以来、父や実家のことを語られていません。父がまだ故郷にいたら他に行く可能性が高く、父がいなかったと思われます)
1945年(昭和20年)8月15日、玉音放送。日本の降伏で太平洋戦争が終結。バラックで寄席や芝居小屋が建ち始め、松竹家庭劇も再スタートを目指していきます。
1946年(昭和21年)3月、松竹家庭劇の十吾と天外は「すき焼き」の食べ方でつかみあいの大ゲンカ。以降、2人は会話をしなくなります。(不満がたまっていて、すき焼きは爆発のきっかけでしょう)
同年5月、浪花千栄子は松竹家庭劇を天外とともに退団。翌月に「すいと・ほーむ」を結成。地方従業と住まいの東板持との往復の日々を送ります。
1946年(昭和21年)秋、藤山寛美が「すいと・ほーむ」に合流。
朝ドラ【おちょやん】の原作・モデル浪花千栄子の経歴(7)夫との悲惨な別れ
年代:昭和21年(1946年)~昭和26年(1951年)
舞台:大阪府 道頓堀
1948年(昭和23年)12月、松竹は天外を中心に「松竹新喜劇」を旗揚げ。千栄子は同時に住まいを疎開先から大阪へ引っ越しました。浪花座の裏にあった建物は、千栄子ら戦災で家を失った役者たちが住んでいたので「松竹寮」と呼ばれました。
松竹新喜劇の旗揚げ前月(11月)に喜劇界の重鎮・曽我廼家五郎(=板尾創路さん演じる須賀廼家万太郎のモデル)が逝去。
松竹は、曽我廼家五郎ががんになった頃から準備は進めてきました。曽我廼家十吾も病気で倒れ、松竹家庭劇は休演中。家庭劇と曽我廼家五郎一座がドル箱だっため、新しい劇団が必要になると考えていたのです。
「松竹新喜劇」には「すいと・ほーむ」「曽我廼家五郎一座」「松竹家庭劇」が合流して旗揚げされました。このころには十吾も天外と和解し、松竹新喜劇に参加します。
1950年(昭和25年)6月、朝鮮戦争が起こり、日本は軍需景気に沸きます。松竹新喜劇も、当初は低空飛行でしたが、好景気の波に乗り、連日客が押し寄せました。
しかし、道頓堀の松竹寮に越してきて以来、夫の渋谷天外はまた女癖が悪くなっていました。そして、渋谷天外は新入りの女優・九重京子との間に子供ができます。京子は松竹歌劇団に在籍していた女優でしたが、松竹新喜劇に移籍してきて、千栄子の弟子となっていました。京子は松竹寮に住んでいて、千栄子ら夫婦とはまるで家族のような付き合いだったといいます。
千栄子は天外と京子の浮気現場を目撃。千栄子の怒りは凄まじく、天外に暴力をふるったそうです。愛弟子とのまさかの不倫・妊娠なので仕方ありません。弟子の藤山寛美らが仲を取り持とうとするがうまくいきません。天外は九重京子を選びます。千栄子は天外と離婚。悲惨な別れ方となりました。
1951年(昭和26年)4月、松竹新喜劇を退団する。
自伝では、結婚の破綻を「死を意味するほど重大なもの」と記しつつも、決意を込めて語っています。
二十年のあなたとの辛酸の体験に物言わせて、人間渋谷天外を、平伏さすようなりっぱな仕事を残したいものと念願いたしています。
浪花千栄子「水のように」(朝日新聞出版)
朝ドラ【おちょやん】の原作・モデル浪花千栄子の経歴(8)女優として復活
年代:昭和26年(1951年)~
舞台:京都四条川原町 ほか
浪花千栄子は芸能界から身を引き、同業者にとっては行方不明同様になります。千栄子は京都公演のときに宿舎として何度か借りたことがあった四条川原町の民家の2階が空き室になっていて、そこで暮らし始めます。
そんな中、吉本興業の人気芸人・花菱アチャコがラジオドラマを「浪花千栄子とやりたい」と懇願。NHK大阪放送局の番組担当者が浪花を捜索します。当時はネットもSNSもなく、なかなか見つかりません。番組収録まであと1カ月と迫ったころ、偶然立ち寄った京都四条川原町の居酒屋店主にダメもとで尋ねたところ、浪花千栄子が近所に住んでいると判明しました。
1952年(昭和27年)から放送が始まったNHKラジオの『アチャコ青春手帖』に、浪花千栄子は花菱アチャコの母親役として出演。千栄子の歯切れのよい大阪ことばが人気を博します。
1954年(昭和29年)から1965年(昭和40年)まで放送されたNHKラジオ『お父さんはお人好し』にも二人で出演。アチャコと12人の子供がいる夫婦役を軽妙に演じ人気になります。同作は長寿番組となり、斎藤寅次郎監督により映画化もされました。2人が本当の夫婦と信じていた聴取者も多く、地方収録での旅館では2人に同じ部屋が用意されていたという逸話があります。
朝ドラ【おちょやん】の原作・モデル浪花千栄子の経歴(9)安住の地で
年代:昭和20年代(1945年-)後半~昭和48年(1973年)
舞台:京都嵐山 ほか
昭和20年代後半から、浪花千栄子は映画でも活躍。出演作は240本以上(216本とするライターもいる)と言われます。溝口健二、小津安二郎、黒澤明、木下恵介ら著名な映画監督に重用されました。
また、京都嵐山の天龍寺内に料理旅館「竹生(ちくぶ)」を開き、養女とともに経営します。自伝では当時の思いがこう綴られています。
私は、どうにかして、小屋でもいいから自分の家をと、寝てもさめても毎日思わぬ日はありませんでした
浪花千栄子「水のように」(朝日新聞出版)
元夫の渋谷天外が九重京子と入籍して家を購入し一緒に住んでいると伝え聞いたことも、千栄子の怒りを再燃させました。20年の夫婦生活ずっと借家暮らしだったのに、と。
また、嵐山は渋谷天外と別れたあと死のうと思って訪れた地でもあります。寸前のところで思いとどまらせ、生き返らせてくれた土地でした。(猫に助けられた女中奉公の時代に続き、わかってるだけで、自殺願望の話しはこれで2つあります)
そして、自宅を建てた理由は猫を飼いたかったから、というのもありました。
見つけた土地は地主に当初ゆずってもらえなかったのですが、天龍寺管長が『アチャコ青春手帖』の大ファンで、地主の説得や保証人になるなど協力してくれました。
1956年(昭和31年)春には建築工事が完了。館内の装飾や什器の柄には竹をあしらいました。幼少期、嫌なことがあると竹林に隠れ、竹を愛していました。朝ドラ『おちょやん』でも近くに竹林があり、実母から千代(浪花千栄子がモデル)は「かぐや姫」かと思ったといわれていたと創作もされています。
開業直前には、溝口監督に頼まれて『近松物語』(1954年)で共演する香川京子を旅館に預かり、着物の着こなしや立ち振る舞いを指導したと言われます。
浪花千栄子はテレビドラマでも活躍。
・1965年(昭和40年)の大河ドラマ『太閤記』で豊臣秀吉の母・なか(大政所)を演じ、「大阪のお母さん」から「日本のかあちゃん」になりました。
・1970年(昭和45年)、『細うで繁盛記』が放送開始。1年3カ月放送されました。大阪の料亭に生まれた加代が伊豆のさびれた温泉旅館に嫁いで奮闘する物語です。高視聴率で、関西地区では最高視聴率38.0%をマーク。
・1972年(昭和47年)には『細うで繁盛記』が第2シーズンが放送。
・1973年(昭和48年)8月から『新・細うで繁盛記』が放送。
『細うで繁盛記』は人気シリーズになりました。浪花千栄子は、加代の祖母を演じ、商人の心構えを説く役どころでした。
1973年(昭和48年)12月22日、消化管出血のため死去。突然のことでした。享年66。「ああ疲れた」と死ぬ前に床に入ったと伝えられています。
朝ドラ【おちょやん】の原作・モデル浪花千栄子の有名なCM
画像のこのホーロー看板(屋外用の表示として使用される看板)が街中にあふれたのが昭和30年代後半から昭和40年代前半。
「浪花千栄子でございます。私の本当の名前はなあ、なんこうキクノといいますねん」
浪花千栄子さんといえば、そう言ってほほ笑む「オロナイン軟膏」のテレビCMを思い出す方も多いようです。
浪花千栄子さんの本名は「南口キクノ」で、「軟膏効くの」と掛け合わせたのです。
メーカーの社長が浪花千栄子の本名を知って、その名を気に入り、出演依頼。CMキャラクターの大村崑は「その名には勝てない」と、あっさり降板したといいます。
このCMで知名度が全国区になり、女優業にも影響を与えたことでしょう。しかし芸名がつく前、南口キクノだけを名乗っていた幼少期や奉公の時代はツライころでした。が、この名前があってこそのCM起用。人生どうなるのか分からないものです。
まとめ
浪花千栄子さんの人生は波瀾万丈ですね。極貧生活から、女中奉公、結婚と離婚、女優の成功と失踪・復活、などなど。
夫の裏切りから捨てられた、と言ってもいいような別れなんか、悲惨なエピソードです。
朝ドラ『スカーレット』もヒロインの夫が弟子と駆け落ちしたのですが、少しまろやかに改変されました。朝ドラ『おちょやん』ではどうするのでしょうか。
『おちょやん』モデル・浪花千栄子にあたる竹井千代は、杉咲花さんが演じます。若い女優さんですが、民放ゴールデンの連ドラで主演を務めた経験もある女優です。
つらい時期も強く明るく演じてくれそうですし、女優として再び輝く姿などは、勇気や希望をもらえそうで楽しみです。
花ちゃんのあの笑顔にも朝から癒されそうですね。
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